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経済の研究No.61
行き詰まった名門経営

#N春の橋本前首相とエリツィン露大統領の会談は、伊豆の川奈ホテルで開かれました。ここはゴルフ場付きリゾートの先駆けで、その川奈ゴルフ場は誰もが一度はプレーしてみたいゴルフ場No.1であるそうです(週刊ダイヤモンド調べ)。しかし気位が高いことでも有名なホテルで、本当のお金持ちには堪らないサービスを提供する代わりに、客室稼働率が悪いことでも有名です。

 気位が高いのには理由があります。川奈ホテルの親会社は大倉事業といい、名門商社の大倉商事、をはじめ、大成建設、日本無線、東海パルプ、赤倉観光ホテル、ホテルオークラなどを傘下に持つ名門事業会社です。戦前は大倉財閥と呼ばれたこれらの企業群は、明治6年に設立された大倉組商会を発祥とします。
 大倉組商会を興したのは大倉喜八郎氏は、新潟県出身の実業家で、日本で二番目に商社を立ち上げた人物として知られています。安政2年の日米和親条約を契機として動乱の時代が来ると睨んだ喜八郎氏は江戸で銃砲店を開き、戊辰・西南の内戦、日清・日露の外戦において財をなして建設事業や鉱山事業に手を染め、帝国ホテルや東京電灯、日清製油などの設立にも携わったと言います。
 その大倉組商会は、明治7年にロンドン支店を開設、同38年に中国との合弁会社設立(いずれも日本初)するなど名を馳せました。その後貿易業を拡大し、大正7年に現在の大倉商事に社名を改めました。日本軍の満州進出に伴い大陸への傾斜を深めて利益を上げましたが、戦後の財閥解体で大倉事業を核とする現在のグループ形態へと移行したそうです。

 一番有力なグループ企業は大成建設で、同社は関連会社70社を擁し総合力でトップのゼネコンです。現在芙蓉グループ29社で構成する芙蓉会の有力企業となっています。しかし大倉事業の出資比率は3%に過ぎず、むしろ富士銀行の影響力の方が及んでいます。
 本業の大倉商事は1998年8月21日に自己破産を申請していますが、同社もまた芙蓉グループ系の企業でした。旧大倉財閥グループが芙蓉グループとの関係を深めたのは、四大財閥の一つであった安田財閥が金融財閥であり、対する大倉財閥が銀行など金融部門を持たなかったことで結びつきを強めたと言われています。現在の芙蓉グループはその安田財閥を核としながらも、日産コンチェルン、根津財閥、浅野財閥、森コンチェルンなど旧財閥企業の集合体であることと関係が深いと言えます。したがって大倉財閥系企業も緩やかな形で芙蓉グループの一員を務めてきました。ただし大倉商事は傍系企業です。

 その大倉商事が破綻した最大の理由は、いつまでも中堅商社に甘んじていたことだと言われています。戦前までは業界をリードするほどの実力を発揮していた同社が、戦後は新規事業の開拓をすることなく、名門商社の看板に甘えてきました。確かに総合商社の看板は掲げていますが、旧来からの食糧・物資・金属・機械部門が中心で、いずれも仲介事業でした。
 大手総合商社が情報やエネルギーなど新規事業への積極投資を急ぐのに対して、資金不足を理由に従来と変わらない仲介に拘ったこと、仲介手数料のみに胡座をかき積極的な事業整理、人員削減などの経営努力に取り組まなかったことで負債だけが膨らんでいました。結局は毎期毎期売上高が減少し、関連会社の縮小整理も継続したため7期連続の最終赤字となり、一株株主資本も22円と崖っぷちでした。

 すでに第51回総合の限界」で述べたように、看板で利益が得られる時代は終わりました。大倉商事は1994年3月期の無配転落からも何ら改善措置を取らなかったことで、自ら首を絞めてしまいました。もはや仲介ビジネスの必要性は失われました。情報インフラが整備されてことで、手数料が嵩むだけの仲卸しは必要性がなくなり、コストダウンの要望とも相まって仲抜きが始まっていました。古くから付き合いがあった鉄鋼大手も義理で仲卸しに使っていましたが、支払い繰り延べを提案されて契約を打ち切りました。義理で付き合うほどの余裕を鉄鋼大手も失っているということですね。
 このような経緯で名門・大倉商事は消滅しました。採算が合う部門だけは、生き残れることが決まりました。食品部門は片岡物産に、宇宙航空機部門は丸紅に、子会社の大倉フーズはニッピに引き取られて活動を続けるようです。早くからこれらの事業に集約しておけば良かったでしょうにね。会社が傾き始めたときはまだバブルが終わっていませんでした。不動産業に手を拡げて逆に資金的な行き詰まりを見せましたが、この時点で不採算部門の売却を進めてあれば、社員も株主も皆利益を得られただけに残念です。経営者の経営判断とは本当に重要なものなのですね。事態打開のために大博打を打つ、失敗しても手を引かない、経営判断の誤りを認めない、それでいてプライドは高い・・・近頃破綻する企業の共通項であるような気がします。

 さて親会社の大倉事業は、グループ企業の株式を担保に3,000億円の借り入れをしているそうです。大倉商事が消滅したことで一層資金繰りに悩まされますが、今後は大成建設以下のグループ株式の売却で1,000億円を捻出し、不動産の売却も進めて、借入金を2,000億円以下にまで圧縮するのだそうです。もっと早くに売却に動けば元利払いの負担が少なかっただろうと思いますが、仕方がありませんね。今後はホテル事業を中心に収益力回復を図るのだそうです。もちろん主要取引銀行に金利減免や返済猶予を依頼するそうですが、これも遅すぎたような気がします。。。さて、問題のホテル事業ですが、高級感も結構ですがやはり気位は低くした方がよいと思いますよ。せっかくファンもいることですし、客単価を引き下げ客室稼働率を引き上げる工夫をしなければ大倉商事の二の舞になります。名門の金銭価値は無くなっているのですから、現実に即した経営再建に取り組んでください。

98.09.27

補足1
 大倉商事は大倉事業、大成建設と富士銀行に緊急増資の受入要請しましたが、結局は実現しませんでした。この事実を以て富士銀行は冷たいなどと新聞や雑誌は書いていましたが、冷静に見て富士銀行の選択は正しかったと思います。仮に増資に応じたとしても、何ら再建へのビジョンを持ち合わせていなかった大倉商事のことですから、いずれ資金を食いつぶして自己破産・・・となったでしょう。そうなれば富士銀行の経営判断を問われかねませんから、救済する価値のない会社を切るのは当然であったと考えています。

98.09.27

補足2
 大倉事業は、自らの名を冠したホテルオークラの全株式を、7月までに放出していたそうです。
 ホテルオークラは1962年に大倉邸跡地で開業したものが始まりで、大倉事業は持ち株比率15.1%の筆頭株主でした。グループの経営不振で金融機関への担保となっていた持ち株を公約通り現金化したという形です。放出された株式は、大株主を中心に分散して割り当てられた模様で、筆頭株主は9.0%の三菱地所に変わったそうです。
 また大株主の移動に伴って、創業メンバーの1人であった青木名誉会長が、代表取締役から特別顧問へ異動したそうです。

99.10.29
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