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日本史の研究No.02
天皇家は本当に万世一系か

 随分と不敬に当たるテーマです。戦前ならば不敬罪で罪を問われる話であります。しかし歴史研究家を志す者として、避けては通れないテーマなのであります。憶測を交えつつも論じてみようと思います。

 万世一系とは一つの王朝がただ一つの王統によって受け継がれることを言います。我が国の場合は神武天皇に始まり今上天皇(現役の天皇陛下のことをこう呼びます。前・今上天皇には昭和天皇という名が贈られています)まで一系であると伝えられています。これは日本書紀や古事記の記載に基づくもので、まず実在が確実なのは応神天皇(15代)であり、垂仁天皇(11代)までが実在の可能性があるとされています。応神天皇の皇子が有名な仁徳天皇であり、仁徳の後は、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧と続いています。これらの王は中国でいう倭の五王に対応すると推測されています。清寧天皇の後は履中天皇の皇統に移り仁賢、顕宗、武烈の各帝が皇位(正しくは大王家の当主)に就いています(この皇統をとくに葛城王朝と呼んでいます)。清寧天皇と仁賢天皇とは七親等の開きがあり、何らかの宮廷クーデターが起きたのか、それほどまでに皇位継承者が少ないという事情があったのか不明でありますが、宮廷運営は連続しているのでまず問題はないでしょう。

 万世一系を否定する歴史学者たちは、武烈天皇の次の継体天皇(26代)を以て皇位の簒奪があったと主張しています。継体は応神天皇の6世孫と伝えられ、武烈天皇の十一親等というほとんど他人です。皇室系譜によれば、継体の祖父乎非王を雄略天皇の女系の従弟と記しており、雄略の七親等で仁賢と同程度の皇位継承権があったと主張することが可能です。顕宗は在位11年、武烈は在位8年といずれも短く、宮廷クーデターの可能性を示唆するものがあります。この後に空位の時代が訪れましたが、結局継体が迎えられました。
 継体が越前から迎えられたこと(宮廷で生活をしていなかった)、兵力を率いて乗り込みましたが軍事氏族の大伴金村が全面的に支援したことから考えて、継体天皇による皇統の簒奪は考えられず、遠縁ではあるが確かな皇位継承者として継体天皇が迎えられたと考えるのが妥当でありましょう。また、武烈の姉手白髪皇女が継体の皇后として欽明(29代)を産んでいるから、継体が異なる皇統であっても、現在の皇統は欽明から続いており万世一系は守られています。

 むしろ怪しむべきは天智天皇(38代)と天武天皇(40代)です。両者は兄弟であるとされていますが、崩御年と享年から生誕年を逆算すると天武の方が天智よりも兄となる疑惑があります。ともに父は舒明天皇(34代)、母皇極天皇(35代)でありますから、仮に大化改新の功績が天智天皇に帰すとしても不自然な話です。ともかく蘇我入鹿の暗殺直後に皇極天皇は退位しましたが、皇位は天智でなく、皇極の弟の孝徳天皇(36代)に譲られました。天智が幼いからだとも、遠慮をしたからだとも伝えられますが、そもそもクーデターを主導する天智が幼いはずもなく、舒明の皇子であれば孝徳よりも継承順位の高い彼が遠慮をする理由もありません。明かなことは天智には皇位継承権がなく、もはや継承者が孝徳天皇しかいなかったということです(聖徳太子系の上宮王家は入鹿が滅ぼしています。あるいは入鹿以外の誰かかも知れません)。
 このことは、孝徳が在位5年で崩御し、その子有間皇子が幼いために、皇極天皇が斉明天皇(37代)として再び皇位についたことでも明かです。その斉明4年、有間皇子が反逆罪で処刑されました。幼いために皇位につけず、皇太子に擬せられていた有間が反逆を試みるのは不自然です。唯一の皇位継承者が葬り去られたと見るべきでしょう。

 やがて斉明が崩御し、天智が皇位を継ぎますが、他の皇位継承者がいないのですから異論が出る余地はなかったようです。入鹿が悪役と伝えられるのは天智以降ですが、大王家の乗っ取りを図るのに邪魔な大臣を天智らが暗殺したと見るのが妥当かも知れません。そうであれば、その後の有力氏族の排斥も説明が可能になります。
 のちに天智天皇の皇子弘文天皇(39代)は天武に簒奪されますが、これは史上希なこと(おそらく記録に残る唯一のこと)であり、天智がすでに先例を示したこと、天智と天武が赤の他人である可能性を考慮するならば、あり得る話です。もしもここで万世一系が絶えたとしても、それ以降の皇統は今日の日本を生み出すために尽力したのですから、全く問題がないのです。別に万世一系が良いという理由はありません。

98.02.11
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