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日本史の研究No.16
義経は何処から来たか

 源九郎判官義経・・・日本史上で押しも押されぬ悲劇のヒーローであります。「判官びいき」という言葉もありますように、弱者や薄幸の者に同情する日本的情緒に見合った人物です。ところが、そのイメージは義経記を始めとする判官物が生み出したイメージであり、実態としては日本史上いくつも存在する権力闘争の成れの果てに過ぎません。

 義経は、源氏の総領である義朝の九男として生まれた牛若丸であると伝えられています。父義朝が平治の乱で平清盛に敗れた際、牛若丸は母常磐に連れられ、同母兄の今若丸、乙若丸とともに大和へ下りました。ところが、母親を質に取られたことを知った常磐は、3子を連れて六波羅の清盛の前へ出頭しました。清盛はその殊勝さに絆されて3子を生かすことを確約するとともに、常磐を妾の一人に加えたといいます。常磐は清盛との間に女子を設け、さらに大蔵卿藤原長成に嫁いで男子を産んだと伝えられています(長成は、鞍馬寺に在った義経の扶持を負担した人物です)。ともかく常磐は美貌の女性であったようです。
 さて、清盛に助命された3子は別々の場所に預けられることになり、牛若丸は鞍馬寺に預けられました。比較的に監視が緩かった様子で伸び伸びと育ち、密かに武者修行にも精を出したそうです。史実としては、鞍馬寺入りから後、奥州平泉に出現するまでは謎のままです。伝承では、鞍馬山の天狗を装った人物に武芸を習い、陰陽師・鬼一法眼の娘を誑かして兵法書の六韜三略を盗み読みし、怪僧・弁慶を打ち負かして弟子にしたと伝えられています。いずれも後の鬼才を裏付けるための伝承と見られ、信憑性はありません。ただし弁慶の名は吾妻鏡や平家物語に名を留めており、実在しています。
 義経は金売りの吉次に連れ出されて奥州へ赴いたとされますが、吉次は金売りなどではなく奥州藤原氏の京都支配人の立場にあり、彼の独断で義経を誘導したとは考えられません。かといって、奥州藤原氏の当主・秀衡の困惑ぶりから察すると、秀衡が望んで受け入れたものでも無いようです。奥州の修験者とも伝えられる弁慶が連れだして、秀衡の下で旗揚げさせようと企んだのではないかと思われます。

 ところで、義経は義経記が伝えるような美少年では無かったようです。為義の息子達、義朝の息子達はいずれも公家顔が多く、義朝の弟である為朝、甥である木曽義仲も公家顔であったと伝えられています。これに対して、常磐も天下の美貌でありまして、義経だけが武骨顔であったというのは少し解せません。本当に義経=牛若丸なのでしょうか? のちに頼朝の挙兵を聞いて駿河・黄瀬川に参陣した義経を、頼朝はなかなか実弟と信じなかったという伝承もあり、疑問の残るところです。今若丸・乙若丸がどのような顔をしていたのかに興味があります。
 もしも義経が牛若丸の真っ赤な偽者だとすると、何者なのでしょうか。牛若丸が失踪したのは事実でしょうから、弁慶がどこかで拾ってきた人物に義経を名乗らせたのか、あるいは義経と称する人物が弁慶と語らったのか、あるいは秀衡が源氏攪乱のためにでっち上げたのか、あるいはその複数か、分かりませんが謀略の臭いがします。そもそも何故義経は遠国の奥州を頼ったのか・・・分かりません。当時唯一平氏の勢力が及んでいなかったとはいえ、義家以来縁の薄い奥州藤原氏を頼らずとも、信頼のおける家人は何人も居たはずですから。清盛が今さら討っ手を差し向けたとも考えられません。やはり偽者なのでしょうか?

 出自はともかく、頼朝は義経を末弟として認知をしました。それでなくとも手駒の少なかった頼朝は一軍の将として遇するしか無かったのです。しかし面会当初から不信感は強かったようです。黄瀬川で大勝利を得た頼朝は鎌倉へ戻って関東の基礎固めに動きました。そのうちに木曽義仲が平氏を破って京都入りを果たし、略奪や狼藉の限りを尽くしました。ただし義仲が唆したのではなく、彼に部下を統御する術がなかっただけのことです。後白河法皇は頼朝に対して義仲追討の院宣を下してきたため、頼朝は蒲冠者こと範頼(義朝の六男)を総大将とする追討軍を組織しました。義経も代官職を受けていましたが一軍の将として遇されました。
 範頼は、遠江国の遊女が産んだ御曹司で、彼が清盛に助命された理由は定かでありません(そもそも探知されていなかったかも知れません)。彼もまた頼朝挙兵を聞いて馳せ着いたものの、総大将どころか代官職さえ務まらない凡人だったようです。ともかく有能な幕僚と義経に支えられて義仲を討ち果たして上洛しました。すでに軍事的才能では義経の方が有能であることが明かであるのに、頼朝は範頼を大手大将軍に任じて一ノ谷に籠もる平氏を追討させました。
 一ノ谷の合戦でも義経の大活躍の前に範頼は霞み、次いだ屋島の合戦でも義経に戦局を浚われました。しかし最後の壇ノ浦の合戦まで範頼が主、義経が従である姿勢は変わりませんでした。頼朝が長幼の序に拘ったというよりも、義経その人に疑問を抱いていたのが理由ではないか、と思います。怪しげな配下、幕僚と馴染まぬ意固地さ、これまでの慣例をうち砕く鬼才・・・便利であるが故に使うものの、たとえ平氏倒滅が叶わなくても義経に一任するよりはマシと考えていたようです。

 結局、平氏倒滅が成ったのち後白河法皇に取り込まれた義経は、頼朝の許可を待たずに官位と領地を受け、独断専行を詰った梶原景時の手紙なども災いして所払いにされました。しかし頼朝は景時も信用して居らず、上手に口実に使ったようです。義経は京に帰っても居場所が無く、奥州に落ち延びて再び秀衡を頼りました。天下の3分の2を掌握した頼朝と互角以上に戦えると信じたのか、秀衡は義経主従を受け入れました。そして秀衡死去、泰衡と忠衡の対立、泰衡による衣川館の焼き討ち、となって義経主従は討ち死にしたことに成っています。
 義経が逃れ出て大陸に渡り、ジンギスカンに成ったかどうかは知りません。しかし奇襲戦法を得意とし、騎馬隊を活かした機動戦術、名乗りを無視した中央突破戦術、ただ一人にして日本の戦術史を塗り替えた彼の軍才はどこから来たのでしょうか。彼が独自に編み出したのか、今は伝わっていない奥州藤原氏の戦術だったのか、あるいは手本となる兵法書があったのか、あるいは天狗が・・・興味は尽きません。

99.04.23
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