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日本史の研究No.24
持明院統 と 大覚寺統

 天皇家は、承久の変によって膨大な荘園を失いました。しかし、その全てを失ったわけでなく、一応の体面を保つ程度には残っていたようです。しかしウラを返すと、天皇家の賄いが精一杯で、宮様を養う余裕は無かったと見るべきかも知れません(後嵯峨天皇には11人の皇子女が、後深草には14人の皇子女が、亀山天皇には28人もの皇子女があり、その多くは仏門に入れたり、臣下に下したりしています)。
 平安時代の皇位の継承は、藤原貴族を中心にして一応の管理が行われていました。いくつかの政争を交えることはあっても、比較的バランスの取れたものであったと見えます。しかし後嵯峨天皇が、皇位継承に幕府の介入を許してしまいました。これが二つの皇統を生み出し、長い間シコリを残してしまうことになります。

 事の発端は、後嵯峨天皇が後深草天皇に譲位し、後嵯峨上皇となったことに始まります。平安時代ほどの実力はありませんが、院政で天皇に影響力を示すことは、依然として続いていました。当然ながら後嵯峨上皇も天皇にアレコレと口を出します。そこで皇位の問題まで持ち出したので大変です。後深草天皇(久仁親王)には、同母弟の恒仁親王、異母兄の宗尊親王(第6代鎌倉将軍)がありました。後嵯峨は、自らのコントロールを受け付けない後深草に諦めを示して、退位を強要しました。
 そして恒仁を亀山天皇としました。後深草は不承不承であったようで、後嵯峨の死後に幕府へ申し出て、皇子・熙仁親王を皇太子に定めるよう求めました。当然ながら亀山も抵抗し、幕府へ仲裁を求めました(後嵯峨が仲裁を遺言したとも、互いに非公式のアプローチをしたとも、言われています)。時の執権は北條時頼で、敵を分断して弱体化させるのが得意な人物です。天皇は亀山の子・後宇多天皇(世仁親王)でしたが、その皇太子に熙仁を指名し伏見天皇として即位させます。
 伏見(熙仁)は持明院に移り住んだので、彼の皇統を持明院統(持)と呼んでいます。後宇多(世仁)は大覚寺に拠を定めたので、彼の皇統を大覚寺統(大)と呼んでいます。伏見の次は後伏見(持)、後二条(大)、花園(持)、後醍醐(大)と交代で継承していきます。両党が争い、幼い天皇が即位し短期で退位するシステムとなり、時頼の思惑は当たったかに見えました。しかし・・・。

 第96代天皇となった後醍醐天皇は、これまでとは変わって30歳の青年天皇です。彼は元々二皇統継承に不満を持ちました。今後の大覚寺統は兄・後二条の系統で続くことになり、彼の皇子たちに継承権が無いと決まったのです。実力で皇統を奪うしかないと決意し、その障害となる鎌倉政権の打倒も意図していったようです。すでに御家人や農民の不満は大きく膨らんで、天皇親政の条件が揃いつつあったのです。
 就任早々の1317年、後醍醐は院政を廃止して親政を宣言します。さらに1324年、政権奪取を試みて失敗(正中の変)し、1331年にも計画が漏れて後醍醐は吉野へ遁走(元弘の変)しました。執権守時は後醍醐を廃位して、持明院統の光厳を即位させました。正当な皇位の証である「三種の神器」を後醍醐が持ち続けたため、光厳の即位は不定でした。
#N、執権守時は後醍醐を捕らえて隠岐に流しましたが、楠木正成の赤坂挙兵皇子・護良の同調後醍醐の隠岐脱出足利高氏の六波羅殿誅滅新田義貞の鎌倉攻略鎌倉政権の転覆と成りました。
 翌1333年、後醍醐の凱旋光厳の廃位記録所・雑訴決断所・武者所の設置となり、1334年建武の新政が始まります。

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補足1
 建武の新政で、殊勲賞を得る資格があったのは、楠木正成・足利高氏(尊氏)・新田義貞の三人でしょう。
 楠木正成は、幕府の大軍を河内国に引き付けて持ちこたえ、諸国の勤王派に自信を与えました。ところが出自が明かでない悪党出身であったことから、新政後の待遇は良いと言えない状態でした。彼の軍事上のアドバイスは取り上げられず、それでも摂津国湊川で絶望的な戦争を引き受けて、全滅しています。その後も楠木一族は南朝軍の中核として体制を支えました。
 足利高氏は、源義国を氏祖とする清和源氏の嫡流であり、北條氏と何度も縁戚関係を結ぶなど、有力御家人の1人でした。しかし足利氏には天下奪取の野望があり、高氏(当時)は鎌倉政権の腐敗を好機と見ていたようです。しかし繰り返し河内下向を命じられ、やむなく鎌倉を離れました。河内で著しく士気低下した無気力な大軍を目にし、後醍醐側への寝返りを決断、六波羅殿の誅滅に及んだようです。北條氏には寝耳に水の大事件ですが、周到な計画に基づいていたようです。
 新田義貞は、同じく源義国を氏祖としています。義国は、長子義重に新田庄を、次子義康に足利庄をそれぞれ与えましたが、実質的に本拠地で肥沃な足利庄を継いだ義康の方が本家筋と目されていました。新田一族は信濃や越後に勢力を扶植して、足利一族打倒を目指していたらしく、その一族を大動員し、各地の不満武士を糾合しながら南下し、大軍で鎌倉を落としました。
 鎌倉陥落は彼の手柄のはずでしたが、軍勢に高氏の嫡子・義詮(当時2歳と伝わる)が加わっていたことで、手柄は義詮に奪われるという珍妙なことに成りました。一地頭新田と、数カ国の守護も兼ねた足利では家格が違ったと言うことでしょうか。義貞の劣等感が大局的な戦略眼を曇らせ、新政後の高氏台頭を許し、正成の敗退、自らの戦死・・・と成ります。義貞個人は勇あって知恵なしの武将でしたが、それなりの人望はあったようです。

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補足2
 正中の変は、よく分かりません。後醍醐天皇が度々無礼講を開き、貴族・僧・武士などを巻き込んだ宴会を開いていたことは確かですが、その宴会で果たして謀議が行われていたのかどうか明確でないのです。天皇のブレーンである日野資朝や俊基が全国を行脚して味方を増やしていたのも間違いないのですが、具体的にクーデター計画まで行き着いていたか不明なのです。
 美濃の豪族・土岐頼兼が荷担を約束し、クーデターを企図していると訴え出た者がありました。一族の頼員です。彼の舅は六波羅殿の奉行であり、彼が寝物語に聞かせたところ、妻に説得されて訴えに及んだものらしいです。何となく一族内の相克なども絡んでいるようで、後味の悪い事件です。
 結局、六波羅の兵が頼兼らを急襲して皆殺しにしたものの、その後決定的な証拠が出てきませんでした。資朝と俊基は捕らわれて鎌倉へ送られましたが、俊基は赦免され、天皇にも影響は及びませんでした。

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補足3
 続く元弘の変も不明です。後醍醐天皇は身分に拘らず有能な人物を登用していたそうです。主流の藤原氏でない、日野資朝・日野俊基・北畠親房・吉田定房という人々がブレーンとして活躍したわけです。藤原貴族は謀議に適さないことと、行動が目立つことなども理由でしょう。同時に持明院統の貴族も多かったでしょうから、積極的に下級貴族を抜擢したのかも知れません。
 元弘の変では、文観という怪僧を呼び寄せて、天皇が鎌倉政権調伏の祈祷を繰り返していたという密告が原因でした。しかも密告者が、吉田定房です。信頼を置かれていたはずのブレーンが、密告に及ぶほど天皇の行動は異様だったのでしょうか。
 天皇は慌てて南方へ逃れましたが、偽者を比叡山に送り込んで偽装し、時間稼ぎをしました。当時延暦寺の座主が護良親王で、僧兵が結束して踏ん張ったものの、偽者であることがばれ護良らは追放されました。結局天皇は吉野の山中をさまよい歩いて捕らわれました。

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