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日本史の研究No.29
戦争ごっこ、応仁の乱

 中学の日本史の授業では、応仁の乱を大きく取り上げています。応仁の乱こそが戦国時代の発端であり、世の中の乱れる基になったと教えます。しかし、前回に書きましたように、足利幕府は義満一代のみの栄華を誇って、ずっと下り基調でした。行き着くところに行き着いたのが応仁の乱であり、この争乱において中央政府は統治能力を失ったために、いわゆる戦国時代が生まれたということです。
 足利幕府が弱体であった原因は、守護大名の強大化に歯止めが利かなかったことです。開幕時に幅を利かせた諸大名は義満が一時粉砕したものの、代わった三管四職が強大化してしまいました。義満の詰めの甘さと、続いた若輩将軍の非力と無能力とが、最大の要因だと考えます。

 八代将軍・足利義政は、強力な守護大名の圧迫を受けることなく、中興の祖となり得る位置にありました。知謀もあり実行力もあったようですが、早々と政治に飽きてしまったことが問題です。女御や近臣の発言を重んじる不公正な政治を行ったため、徳ある者は去り、阿る者ばかりが集まりました。
 将軍同様に幼くして管領に就任した細川勝元は、この悪政を憂えて幕府の切り回しに奔走を始めます。能力もあり人望もあった彼は、だんだん将軍の尻拭いに嫌気がさし、独自路線を貫き始めます。そんな勝元の対抗馬が、山名勝豊(宗全)でした。父の代に明徳の乱を引き起こして勢力を弱めた山名一族を、四職筆頭にまで回復させた勝豊は、混迷を深める管領家の斯波氏・畠山氏を凌いでナンバー2に躍り出ました。

 斯波氏は管領家筆頭でしたが跡継ぎに恵まれず、一族の義敏を当主に迎えました。ところが重臣との折り合いが悪く、幕府は同じく一族の義廉を当主に指名しました。義敏は賄賂で近臣や女御に渡りを着け、義政の翻意に成功して当主に返り咲きました。領国と家臣は二分されて相争い、義敏は義政と勝元の庇護を受け、義廉は女婿として勝豊の庇護を受けました。
 畠山氏は三管領家の三番目でした。同じく跡継ぎに恵まれず、弟政長を指名したところが、実子義就が誕生したことで指名を撤回しました。重臣は政長を当主と仰いで義就を追放し、義政もこれを追認しました。追放には勝元が荷担したため、義就は勝豊を頼って勢力回復に努めました。
 同じく将軍家でも跡継ぎに恵まれず、義政は弟義視を指名して勝元に後見を命じました。ところが正妻富子に実子義尚が誕生し、富子は勝豊に後見を依頼して対立を深めました。当の義視は将軍職に魅力を感じていなかったようですが、身の危険を感じて当事者に加わりました。

 勝元と勝豊の争いは、あっけなく勝豊の勝利で終わりました。畠山氏の内紛に勝豊が介入し、勝元が傍観したことが原因でしたが、背後に将軍義政の優柔不断がありました。田舎大名の勝豊は政治を壟断したものの警戒心を解き、勝元は密かに有力大名を集めて反撃に出ました。事実上管領家筆頭である勝元に同心する者は多く、全国から公称25万人の兵力を集めました。慌てた勝豊は公称11万人の兵力を集めましたが、不利は否めませんでした。
 本当ならば天下分け目の決戦が行われ、同時に勝元の大勝利で終わったことでしょう。しかし戦乱は、1467年の開戦から1477年まで都合11年間も続いています。最大の理由は敵も味方も同族であることです。斯波氏は斯波氏、畠山氏は畠山氏で相争いますが、家臣達は元々一体であった上に、兵士まで含めて兄弟一族が相争う形です。両陣営に加わっている大小名も、戦乱を口実に一族で割れて争っているので、人的被害を最小限にしようと、見せ掛けの小競り合いばかりです。
 やがて守護代達が地方で勝手な代理戦争を起こし、大内氏・赤松氏など地方大名が上洛して参戦するなど、混迷を深めました。結局、中央も地方も荒れ放題で本格戦争には発展せず、ずるずると戦争ごっこが展開されたのです。兵士の士気も落ちて略奪なども絶えず、厭戦気分が拡大してしまいました。勝元と勝豊は1474年に和睦したものの、その後も争乱は3年間続いていますが、実りはありませんでした。

 当事者能力を発揮するべき義政は、呑気に戦局を傍観して、室町御所に籠もりきりの贅沢三昧を尽くしていたそうです。戦乱が収まると銀閣の造営に乗り出すなど、政治を顧みませんでした。参戦した大小名も、傍観した大小名も、将軍の無能力さに愛想を尽かせて地方で割拠を始めました。勝元も勝豊も相次いで没し、もはや三管四職も凋落してしまいます。
 名よりも実、官職よりも兵力が物を言う時代が幕開けました。その後も足利幕府は続きますが、新しい戦国時代という新時代を迎えることに成ったのです。

00.02.12
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