前頁へ  ホームへ  次頁へ
日本史の研究No.36
中世の終わり、近世の始まり

 西洋では、封建制を基礎とする時代を「中世」と定義づけています。5世紀のゲルマン支配確立から、16世紀のルネサンス・宗教改革の時代であると、一般的に言われています。こうした呼称は、あくまで時代の区分により、大まかに時代の特徴を掴むことを目的としています。したがって、明確な境界線が存在するわけではなく、便宜的な境界線が引かれます。何時をもって境界線とするかは、歴史学者によって異なります。
 日本では、封建制が確立したのは12世紀ですから、およそ鎌倉時代を中世の始まりとしています。封建制が崩壊したのは明治維新ですから、西洋と同じ定義では19世紀までが中世に成ってしまいます。確かにそう定義する意見もありますが、一般的には、封建制の時代を前期(鎌倉・室町時代)と後期(江戸時代)に分けて、前者を「中世」とし後者を「近世」としています。

 さて難しいのが、いわゆる安土桃山時代です。織豊時代とも呼ばれますが、これを室町後期に組み入れる考え方と、室町と江戸の中間に一時代とする考え方とがあります。歴史の時代区分からすると極めて短期間ですが、歴史が大きく転換した時代でありますから、学校で学ぶ日本史でも一時代とするのが普通ですね。さらには、この安土桃山時代を「中世の終わり」とするのか、「近世の始まり」とするのかで議論が分かれます。
 安土桃山時代の最大の特色は、西洋における王権の拡大に似ています。宗教改革により、旧い因習を代表する宗教勢力が後退し、絶対王政の時代への移りました。これを近世の始まりとするならば、織田信長による宗教戦争を境として、豊臣秀吉による天下統一の完成を以て、近世の始まりとする見方ができるでしょう。その過渡期であった信長の時代を近世に含めるのが自然だと思われます。この考え方では、信長の誕生・信長の元服・桶狭間の戦い・姉川の戦い・石山本願寺の開城・長篠の戦いなど、どのイベントで中世との境界線にするか議論があります。
 一方で、武功派が奮った時代を中世の終わりと捉え、吏僚派が取って代わる時代を近世の始まりと位置づける考え方もあります。この場合、小田原城開城・島津氏降伏・秀吉死去・関ヶ原の戦い・徳川幕府の開幕・秀忠将軍就任・豊臣氏の滅亡・家康死去など、各イベントを境界線とする議論があります。この場合は、織豊時代の大部分が中世の終わりに属することになります。

 個人的には、安土桃山時代は中世の終わりであると考えています。武功派が幅を利かせた時代が中世であり、吏僚派が台頭したことによる官僚体制の確立が近世であると思います。確かに織田政権でも豊臣政権でも官僚制は整備されつつありましたが、まだまだ武将による武功が出世の近道でした。大坂の陣より以降、目立った戦いが無くなり、武功は幅を利かさなくなります。腕力よりも知恵がモノを言う時代に変わっていった分けです。
 厳密に官僚体制が確立されたのは、徳川家光の時代です。しかし秀忠の時代でも、武功派は秀忠から遠ざけられており、少なくとも江戸では官僚体制が整備されつつありました。武功派は家康の死に伴う駿府政権の消滅により、歴史の舞台から退場してしまいました。これより後の時代は、タイクーン・トクガワによる絶対王政の時代が到来し、武士とは名ばかりの官僚政権が誕生しました。大名も武士ですが、地方領主であり、政権の代行者という位置づけに収まり、西洋よりも大幅に遅滞しながらも近代へのステップを歩んでいったようです。

 豊臣政権でも、徳川政権でも、同様に近世は訪れたと思われます。しかし革新的で重商主義の豊臣政権であれば、近世における歴史の歩みが大きく変わったことでしょう。しかし、歴史は保守的で農本主義の徳川政権を選択しました。それは皆様もご存じのように、「関ヶ原の戦い」という戦争の結果が導き出した結論でした。

01.07.08
前頁へ  ホームへ  次頁へ