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日本史の研究No.01
なぜ大王家だけ残ったのか

#Nの大化改新まで、天皇家は存在しませんでした。この家は大王(おおきみ)と呼ばれていたのです。日本史の勉強では推古天皇、敏達天皇、欽明天皇など初代神武天皇以来、脈々と天皇の呼称が使われていたように習いますが、いずれも奈良時代以降に追贈された諱でして、この当時は大王家の何々と呼ばれていたのです。
 大化の改新までは大臣(おおおみ)の蘇我氏が政治を掌握し、大連(おおむらじ)の物部氏が軍事を掌握(正確に言いますと、軍事権は大伴氏と物部氏が分掌)していました。この二家が双璧であり、他に紀氏、巨勢氏、佐伯氏、中臣氏などなど豪族達が周囲を固めていました。対する大王家の役割は、神祇一切を掌握することでありました。当時の大王家は、現在の内閣における内閣総理大臣に相当し、閣僚の代表者であり調停者ではありましたが、絶対的な権力を握る存在ではありませんでした。大臣や大連の協力なしには国は成り立たない状況だったのです。したがって、大臣たちを認証することはあっても任命することもありませんでした。他家の者を大臣や大連に任命することも不可能という考え方でした。ただ「大」を付けたのは飛鳥時代後期の流行で、自称の場合と大王家公認の場合とがありました。

 そのバランスを壊したのが蘇我馬子です。彼は聖徳太子と手を組んで、大伴氏と物部氏を追い落としました。ともに軍事勢力の中心氏族でありまして、本来は政治を担当する蘇我氏の権限を逸脱していました。両氏を葬る武器として、大王家との血縁関係を深めることと、新教である仏教の最大後援者になることとを利用したのです。これにより軍事面でも大王家に優位に立ち、神道の継承者である大王家と対等の力を手に入れました。しかし馬子にはそれ以上の野心がなかったようです。大王家に蘇我氏の血を入れた時点で天下を掌握した気になっていたのかも知れません。
 その蘇我氏の地位をさらに高めようと企んだのが、馬子の孫・入鹿です。大王家から外交権を奪い(もともと大臣家の管轄だったとも言いますが)、さらに父蝦夷から大臣を直接贈られる(認証を省略した)形式を取ることで、日本の支配者然として振る舞いました。蘇我家と対等に渡り合える豪族はなく、一族内に石川麻呂などの不満分子が存在することが気掛かりな程度でした。あとは大王から実権を奪い、この頃伝えられた、中国の皇帝のような地位を目指していたように思われます。

 結局は入鹿が暗殺され、蝦夷が自害したことで蘇我氏の野望は潰えました。まさに一発逆転ともいえる宮廷クーデターは、これまでの日本の公式記録にはありませんが、中国ではすでに良く使われた手法でした。この後、中大兄皇子が大王となり、新しい時代が始まります。それは入鹿が目指した皇帝を中心とする中央集権国家の建設であり、律令政治の始まりでありました。
 「歴史の流れは、暗殺によっては変えられない」と言います。大化改新は暗殺によって歴史を変えた例であるかのように喧伝する歴史学者もいますが、歴史全体の流れから捉えれば、やはり遠からず歴史は中央集権国家の成立を指向していたと見るべきでしょう。ただ暗殺事件の発生により大臣家が天下を取るか、大王家が天下を取るかの違いを生むという違いがありましたが。

 以上のように考えますと、大王家が残ったのは宮廷クーデターの成功という偶発事件が産み落とした現象に過ぎないのです。

98.02.11
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