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日本史の研究No.03
聖徳太子は実在したか

 飛鳥時代はこの人なしでは語れない聖徳太子ですが、天智以前の歴史が意図的に歪曲されたのであったなら、彼の存在も疑ってみるべきかも知れません。

 まず、皇位継承の疑問があります。欽明天皇(29代)の皇子皇女には4人の天皇が出ています。敏達天皇(30代)、用明天皇(31代)、推古天皇(33代、女帝)、崇峻天皇(32代)であり、このうち推古天皇は敏達天皇の皇妃であります。敏達は在位14年、用明は在位2年、崇峻は在位5年で亡くなっています。推古天皇は、史上初めての女帝であり、36年の長きに渡り在位した天皇です(彼女のために天照大神は女帝であったという神話の引用がされたそうです)。のちの女帝はリリーフ的な役割が多かったのですが、彼女は本格的天皇であった点で興味があります。推古即位は、崇峻天皇が蘇我氏との対立を深めて蘇我馬子に殺された事件の直後です。この事件は冤罪の疑いがあります。
 崇峻崩御直後の大王家を見回したとき、敏達天皇には押坂彦人大兄皇子、春日皇子、難波皇子(いずれも息長系皇子、息長真手王の系統の血筋を色濃く受け継ぐ)が残っていました。用明天皇には厩戸皇子ら数名の皇子がいました。厩戸皇子は当時19歳で、母は穴穂部間人皇女(推古の妹、蘇我系皇女)であり、蘇我氏としては理想的な皇位継承者でありました。敢えて女帝を立てるまでもなく、厩戸皇子が即位しても良かったはずです。しかし現実には推古天皇が即位し、聖徳太子と呼ばれる人物が摂政となったと伝えられています。
 通説では、厩戸皇子が聖徳太子であるとされます。しかし女帝の方が年長であり、彼女に摂政が必要であったとは考えにくいです。仮に政治や神祇について知識が不足するために摂政が必要であったとしても、皇族を以て摂政に任ずるのであれば、その皇族に帝位を譲るのが本当ではないでしょうか。結局は在位30年目に厩戸皇子が亡くなるまで、全く譲位した様子が見られません。

 また、政策上の疑問があります。聖徳太子と蘇我氏の仲が悪かったことは考えられません。大臣の蘇我氏と仲違いして冠位十二階や十七条の憲法、遣隋使を実施することは不可能だったはずです。仏教保護や物部氏討伐など協調した行動が見らると伝えられますから、両者の関係は非常に良好だったはずです。ところが、この時代の政治は蘇我氏の専管事項でした。大王家の判断で官位制度や憲法制定が可能であったとは考えられません。仮定として、聖徳太子なる者が提案したとしても、実施主体は大王の推古天皇にはなく、大臣の蘇我馬子にあったはずです。それにも関わらず聖徳太子の功績と伝えるのはなぜでしょうか。

 最後に、摂政存在の疑問があります。天皇が幼い場合は摂政を置いて政務を補弼せしめる、としたのは藤原良房からであります。それ以前にも摂政は存在しましたが、政務を代行し得るほどの権限を持たなかったとみるのが相当です。せいぜい助言、急場の政務代行程度であったろうかと思います。そのため冠位十二階ほかの政策は明らかに権限を逸脱するように見えます。政策を立案するのは大王の仕事でないので、当然に摂政の仕事でもないはずです。つまり当時これらの政策を実施したのは摂政ではなく、他の何者かであったということです。

 以上のように推理すれば、聖徳太子の治績は当時の大臣であった蘇我馬子の治績であったと考えるべきではないでしょうか。彼は大臣として政策を推し進める地位にありましたし、仏教に帰依し、保守派を一掃するなどの手腕を示しています。馬子の死後、息子の蝦夷が天皇の名代として各国の外交団を謁見していますので、遣隋使などの貿易も彼の専管事項であったと見ることができます。
 では、彼の治績であると史書は書き記さなかったのは何故なのか? もし馬子がそこまで偉大な政治家であったのであれば、入鹿ひとりの失政で蘇我氏を滅ぼしたことに説明が付けられないからです。そもそも入鹿に暗殺されねばならない罪があったとは考えにくいのですが、負ければ賊軍の常で歴史書の記録は歪曲されます。このために、崇峻天皇の暗殺という汚名が馬子に残され、史上否定できない諸政策は、架空の聖人である聖徳太子が行ったことにしたのではないでしょうか。
 厩戸皇子は実在しただろうと思います(現在、聖徳太子の画像と伝えられるのは別人がモデルであるそうです。つまり、かつての壱万円札は聖徳太子ではなかったということになります)。推古天皇の名目上の摂政であったかも知れません。しかし、名政治家であったとは考えられません。凡庸な政治家であったからこそ推古天皇から譲位されることもなく、明確な治績が伝わっていないのでしょう。山背大兄皇子らが滅ぼされた事件を派手に扱うためには、彼らの父厩戸皇子を蘇我氏と比肩する偉大な人物とした方が好ましいのです。そういう意図で幻の聖徳太子と厩戸皇子は同一人物とされたのではないかと考えています。

98.02.15

補足1
 推古天皇の意中の人は、実子竹田皇子であったと伝えられていますが、彼は推古即位の直後に亡くなっています。他の皇子達は敏達の子ではあるが推古の子ではありませんでした。

補足2
 家系上の蘇我馬子は、厩戸皇子の大叔父となっていますが、馬子が亡くなったのは皇子の死の4年後、天皇の2年前です。馬子の治世と皇子の時代は完全に重なっています。

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