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日本史の研究No.34
明智光秀の十一日天下

#N6月2日未明、織田信長・信忠の父子が本能寺で討たれました。これにより、畿内に権力の空白地が生じることに成りました。信忠の弟たちは他家の養子に出ており、信忠の子三法師(のちの秀信)は岐阜城にあって、幼少でした。織田氏が天下を回復するにしても、旗頭不在という状況に陥りました。その空白を利用して、明智光秀は新政権を担おうとしたことでしょう。

 しかし光秀の行動は、不可解です。京都御所に陣取って兵を募るが常道であるのに、まず安土城を抑えるため近江へ進軍しました。ところが瀬田橋を落とされたために、安土城に入るまで2日をロスしました。幸いにも安土城は空城になっていたので攻略の手間は省けましたが、そこに籠城するでもなく、早々に京へ戻っています。
 光秀は、なぜ安土に向かったのか? 最大の謎です。難攻不落の城であるので、籠城して上杉や毛利の救援を待つというのであれば、分かります。人質や財宝が目的であったとすれば、瀬田橋が落とされた時点で断念すべきでした。安土の城兵が退去を選択することは、光秀に分かっていたのですから。光秀の本拠地の一つである坂本城は近江にありましたが、実質は丹波亀山城に移っていたので、意味を成しません。ただの占拠が目的なら、代理でも十分であったはずです。

 対する秀吉は、備中高松城を水攻め中でした。もう一押しで落とせるところで、敢えて信長の出馬を求めたのは、手柄を譲ることでの保身であったと言われています。中国切り取り次第の権限を得ていた秀吉は、備中を攻略することで、織田の軍団長の中でも最大の版図を治めることに成ります。信長の四男・秀勝を養子に迎えたことと同様に、保身には意を砕く必要があったのでしょう。しかし、それが本能寺の変を引き起す一因となりました。
 6月4日に本能寺の悲報を知った秀吉は、それを秘したままで毛利氏と講和をし、備中高松城の開城・受取を実現しています。毛利氏の重臣・小早川隆景と使僧・安国寺恵瓊の理解があったためと言われます。6日午後に出発した秀吉軍は、8日朝に本城・姫路城へ到着する早業でした。各地の織田方武将への手紙を乱発し、流言・恫喝を交えて、秀吉軍への協力を求めました。あまりにも素早い行動であり、安土攻略に時間を費やした光秀と、違っています。

 光秀が期待した援軍は、全く得られませんでした。寄騎武将であった丹後国の細川藤孝は、古くからの盟友であると同時に、子忠興が娘婿という縁戚でした。動員可能兵三千人強の彼を味方に得られなかったことは、大きな失敗でした。事前のネゴが無かったことや、信長に傾倒していたことも理由でしょう。同じく寄騎武将であり、その大名昇格に光秀が尽力した大和国の筒井順慶は、国内不穏を理由に日和見を決め込みました。動員可能兵五千人が得られませんでした。
 加えて摂津国の動向も、期待を裏切るものでした。四国へ渡海する準備中であった神戸信孝(信長三男)・丹羽長秀の軍団は、内部分裂で自壊しました。光秀が摂津へ出ていれば、これらを吸収することも可能でしたが、逃亡兵は流れるに任せました。渡海軍に加わっていた、娘婿の津田信澄(織田信行の遺児)は、内応の嫌疑で殺されてしまっています。ここにも連携ミスが見られます。

 歴史ifです。もしも光秀が摂津へ進出していれば、どうなったでしょうか。信澄を救えないにしても、神戸・丹羽の渡海軍の残党を解体・吸収できたでしょう。摂津兵庫城の池田恒興は、信長の乳母の子で、大の秀吉嫌いでした。理詰めで説得すれば、光秀方に加わった可能性もあります。中立的であった、高山右近や中川清秀という猛将を取り込めば、摂津国で七千人は得られたはずです。堺から武器や兵糧を徴発し、順慶を釣り出し、親交のある長宗我部氏に援軍を頼めば・・兵力的には光秀優勢であったでしょう。
 しかし、安土で無為に時間を過ごし、秀吉による挽回の機会を与えた光秀は、13日の山崎の合戦で敗北しました。光秀軍は1万人余り。秀吉軍は援軍1万以上を加えて、三万人以上の大軍でした。一戦にして壊滅した光秀軍は解体し、光秀は坂本城へ落ちる途上で、農兵の竹槍に討たれたと伝わっています。わずか十一日だけ掴んだ天下でした。主君殺しを行った報いを受け、全てを失っての滅亡でありました。

 歴史は、ただ信長という人物を抹殺することだけを望んだのでしょうか。羽柴秀吉の立身出世のための露払いしか演じなかった、光秀の不幸だけが残りました。

01.05.05

補足1
 山崎の合戦の時間的な絶妙さが、多くの歴史小説家の空想力を刺激するようです。光秀が天下人になる作品がありますし、毛利氏や上杉氏が天下を取る作品もあります。
 本能寺の変当日が、神戸・丹羽の渡海軍が四国へ渡る予定日であったそうです。渡海がもう一日早ければ、無条件に長宗我部氏と同盟できたでしょうし、秀吉軍への援軍は半減したでしょう。加えて、摂津・河内の大名の協力も得やすかったかも知れません。順慶や藤孝の協力もあったかも知れないのです。
 備中高松城が2日も保たれれば、秀吉の大返しは実現したかどうか微妙です。毛利氏は追撃しなかったにせよ、毛利氏との和睦なしでは、備前岡山城や播磨姫路城を空にすることはできなかったでしょう。秀吉としては、信長来着まで高松城を生かす予定だったのですから、大きく計算が狂ったことでしょう。計算が狂えば、毛利氏が光秀に呼応して、播磨まで進出した可能性があります。
 本能寺の変翌日、北陸の柴田勝家が、越中魚津城を攻略しています。上杉景勝を越後へ押し戻す大きな戦果でしたが、結果的に手放して撤退に追い込まれています。魚津城落城が数日遅れていれば、急撤退に追い込まれた上野厩橋城の滝川一益と同様に軍団消滅となった可能性が高いです。
 本能寺の変前日に、徳川家康一行が堺見物へ向かって京を離れています。本能寺の変に巻き込まれずに済みましたが、鈴鹿越えと呼ばれる難所ルートで伊勢にまで逃れています。のちに誇張されているようですが、苦労したのは間違いないようです。家康一行が野武士にでも討たれていれば、江戸時代は訪れなかったでしょうか。秀吉・光秀の対決が長引いていれば、家康が尾張・美濃・伊勢を併呑して天下を取った可能性もあります。

01.05.05

補足2
 秀吉が突貫で山崎まで切り返した大行軍を、「中国大返し」と呼んでいます。これは毛利氏側の協力なしに実現しなかったのですが、毛利氏の協力はどの程度だったのでしょうか?

 毛利氏の当主・輝元は若く、凡庸であったと言われます。毛利氏を支えていたのは、輝元の叔父である吉川元春と小早川隆景でした。前者は山陰担当で陸戦専門、後者は山陽担当で水陸を統括していました。思慮深く毛利氏の限界を感じていた隆景は、織田氏との早期和睦を望んでいたようです。有岡城・三木城や鳥取城の落城、宇喜多氏・三村氏・来島水軍の離反、若輩な当主がありました。頑迷に抵抗を主張する元春を黙らせる機会を、隆景は狙っていたと思われます。
 毛利氏が備中高松城を後援した最大の理由は、城主・清水宗治への義理を果たすことだったと言われています。もともと外様で城主歴の浅い宗治は、秀吉に備中・備後国主の地位を提示されても毛利方に留まりました。高松城が落ちれば、本国・安芸が危機にさらされて講和条件が揃うところでありました。徹底抗戦を選択した以上、これを見捨てることは大規模な毛利離れを招くため、形ばかりの救援になったようです。現実に、破れれば後がありませんでした。
 隆景としては、信長の来着目前での講和が、ギリギリのラインであったと思われます。来着してしまえば講和を受け入れる信長でありませんし、在京中であれば秀吉の独断が働きにくいからです。京や大坂の知己を総動員し、有利な水軍を利用してまで、京都の動静を探っていたことでしょう。それにも関わらず、本能寺の変を秀吉よりも遅れて受け取るというのは、不自然です。

 早くから隆景は、恵瓊を通じて講和の条件を探らせていました。秀吉は回答を引き延ばして、信長の来援を待っていました。本能寺の変を元春らが知れば、秀吉との対決は避けられません。しかし、中国地方を再奪還するだけの実力は、毛利氏に失われていました。光秀の密書か、京からの早舟か、隆景が本能寺の変を先に知ったとするのが、自然だと思います。その情報を秀吉に見せ、早期講和を演じて見せたというのが、事実ではないかと思います。
 秀吉撤退に合わせて隆景は、毛利家の家紋入りの幟を秀吉に贈っという話もあります。それが秀吉撤退を保証する効果があったと言われています。秀吉は、水攻め中だった堤防を切って泥濘を作りました。その後に変を知る隆景は、泥濘を越えられないことを理由に、追撃を諦めています。両者の芝居であれば、納得できる話です。

01.05.05

補足3
 読者の方からご意見を頂きました。近江・美濃・尾張は事実上の軍事空白地であったので、安土に進出したのではないかというご意見です。

 たしかに近江国内の兵は、大部分が北陸や摂津に出陣していました。南近江の蒲生氏が、信長から安土城を預かっていましたが、賢秀・氏郷父子で1,500程度。あとは京極・山本寺など少数の地侍があった程度で、むしろ光秀寄りだったようです。隣接する信忠の本領・美濃は空同然の状況で、それ以外の地侍も北陸・北信濃・上野などに増援されていました。同じく伊勢は、南に北畠信雄で約3,000があったものの優柔不断で、実質的に軍事空白地というご指摘の通りです。
 しかし逆説的に、目立った国衆もなく、動員可能な兵力が目一杯徴発されている状況では、短期間に兵を集めるのは困難であり、せっかく近江や西美濃などを得たとしても、維持負担を増すばかりであったでしょう。計算高い光秀らしくありません。やはり、謎は謎です。

01.05.22
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