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日本史の研究No.35
太閤秀吉 の 三大事業

 明智光秀を滅ぼした秀吉は、翌1583年に最大の政敵である織田(神戸)信孝・柴田勝家の連合軍を滅ぼしました。ほぼ天下が固まったとして、三大事業に着手しています。まず、同年7月に近江国で検地を実施し、12月に大坂城の築城を始めています。同じ頃、単発的に刀狩りを始めています。翌1584年に、織田(北畠)信雄・徳川家康の連合軍と開戦・講和し、臣下に組み入れました。翌々1585年に紀州一揆、四国長宗我部氏を降伏させました。

 父親が足軽とも百姓とも伝わる秀吉は、征夷大将軍を望みましたが、叶いませんでした。足利義昭との養子縁組を断られ、やむなく藤原氏を称して関白に任官しました。1985年7月、武士として平民として、初めての関白誕生です。1586年12月に秀吉は、豊臣朝臣姓を下賜されました。武家権力を背景とした強引な交渉の結果です。
#Nに島津氏、1590年に北條氏を降伏させ、さらに奥州の国割を決めて、天下を統一しました。これを受けて形式的な隠居を意図し、1590年に関白位を養子の秀次(姉の子)に譲って、自らは太閤を称しました。関白位の豊臣氏世襲を触れたことで、武家による公武合体が誕生しました。太閤は古くからある呼称ですが、日本史では唯一、秀吉のことを指します。その太閤秀吉が行った三大事業は、総検地と、天下普請と、刀狩りです。

 総検地とは、自領・近江国で行った検地を全国に拡大させたものです。検地は、全ての田畑の石高を、京升と呼ばれる統一した器により測り直したものです。これにより公称と実質の差を埋め、租税の公平化を図ることが可能になりました。寺社・土豪や国人領主による隠し田畑を没収するなどし、大いに潤いました。同時に田畑の面積も十反を一町とする統一基準で測量し、度量衡の統一を行いました(天正大判・小判による通貨統一も図っています)。
 総検地により、大名の国替えが容易に成りました。等価またはそれ以上の条件で、大名を各地に移転させることにより、大名と住民の地縁を経つことを狙いました。結果的には国人一揆などを招く結果に成りましたが、強力な戦国大名を弱体化させるには有効だったようです。総検地に合わせて、農民が無断で農地を離れたり武士に成ることを禁止したため、士農分離も進んでいます。

 天下普請とは、諸大名に人と物を拠出させて、城を築く事業です。統一成った結果、無用な砦や城を破却させる一方で、要地要地に戦略上有用な城を築きました。その最大の物が、大坂城です。攻めるに面倒な山城などを廃止し、主要な街道に睨みの利く城々を築かせました。信長が二条城や安土城を築く際にも同様のことをしていますが、そのスケールは数倍以上でした。後に江戸城ほかを築城する際に、家康が真似をしています。
 天下普請を支えたのは秀吉の強大な武力ですが、それ以上に豊富な資金を握ったことも理由にあります。各地の主要な鉱山を直轄地とし、堺や伏見・博多に代官を配置しました。基督教はバテレン追放令などで規制しましたが、南蛮貿易を推奨して利益を独占しました。鉱山は製錬技術の飛躍的向上をもたらし、豊臣氏を潤しました。そのためか、自らの直轄領は畿内に限定し、多くを子飼い武将に配分しました。

 刀狩りとは、百姓から武器になる道具の一切を徴収した事業です。表向きは大仏殿の釘や鎹の足しにするという理由で、1588年7月に全国へ命令を出して徹底的に実施しました。刀剣類・槍・鉄砲などを徴収しましたが、膨大な数に上ったそうです。古くて使えないものも含まれるというので、各地の戦場から回収して保管していたのでしょう。
 これにより、農民一揆は勢力を削がれ、士農分離が一層進むことに成りました。その後も散発的に一揆がありましたが、大規模なものは無くなっています。戦国時代に大いに暗躍した野党や野武士も整理され、中世から近世への道を開く意味で、大きな意義があります。底辺からのし上がって秀吉らしい発想ですが、太閤秀吉の天下が無ければ、実現しなかったことでしょう。

 事業とは言えませんが、大規模な戦争も秀吉の得意技になりました。長宗我部氏・島津氏・北條氏と、順に大きな勢力を滅ぼした秀吉は、回を重ねる度に大規模な兵力・兵站を確保しました。長期滞陣となった小田原城攻めでは、一大都市を築き上げるほどの大規模な戦争を行いました。一種のイベントであり、天下人としてのデモンストレーションであったのでしょう。
 その総仕上げとも言うべきものが、朝鮮遠征です。痴呆症が現れてきたこともあり、相手の大きさが見えない無謀な戦争を始めました。細い兵站のままで大軍を送り込み、一時は朝鮮半島全域を攻略したものの、明軍に押し戻されて、得るものがありませんでした。一次遠征と成った文禄の役では、16万の渡海軍に、1万の水軍、10万の予備軍を擁していたと言われます。

01.05.05

補足1
 秀吉の朝鮮遠征が無謀だったかどうかは、議論のあるところです。秀吉が明を過小評価していたのは間違いありませんが、狭い日本を統一するのに苦労した秀吉から見れば、巨大な明国というのは想像もできない存在だったでしょう。
 しかし当時の日本の鉄砲は、世界最多であったそうです。三段射法や早合なども朝鮮半島では圧倒的であったと思われます。軍馬の数でも圧倒していたと言われています。十分な戦略と戦術があれば、明軍を相手にしても、十分に戦えたのではないかと言われています。
 最大の敗因は、やはり兵站です。陸軍と違って水軍が貧弱であったことで、補給が続かなくなりました。加えて、耳削ぎなど蛮勇を誇ったことが占領地の激しい抵抗を生み、ゲリラなどに悩まされる結果を生んでいます。何よりも、朝鮮半島の大きさだけでも、秀吉の予想以上に大きかったことがあります。
 定まった攻略拠点を構築せず、北上ばかりを急いだ遠征軍が、各個撃破されたのは仕方がないことです。大規模な野戦では勝利を収めたこともあったようですが、気力だけで勝てないことは、太平洋戦争でも経験済みです。

 豊臣政権を短命に終わらせたのは、明らかに朝鮮遠征です。せめて文禄の役で止めておけば良かったのですが、二度の遠征で得るものがなく、地方大名にも子飼い大名にも決定的な亀裂を生じたのが失敗でした。

01.05.05
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