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政治の研究No.38
引退する新党さきがけ

 新党さきがけが登場したのは、1993年6月のことでした。新党ブームが盛り上がりを見せ始めた頃、与野党逆転の機運が近いといわれた時代でありました。細川護煕氏が日本新党を旗揚げして自民党の時代は終わったなどと・・・持ち上げられる中で、武村正義氏が同じ志を持つものを集めて自民党から分派し、旗揚げしたのでした。派閥の領袖でもない武村氏に従ったのは(確か)十人足らずでありましたが、日本新党に合流するでもなく、独立独歩の途を選んできました。一応確認しておきますと、民主党の菅直人氏も鳩山由紀夫氏もこの新党さきがけから出たのであります。
 登場当初は日本新党も新党さきがけも似たもの同士だと言われていました。細川氏も武村氏も県知事を経験して国政に加わった(細川氏は復帰でした)のであり、政策上の理念も近いとされていました。しかし日本新党が細川の殿をトップに頂くお祭り政党であるのに対して、新党さきがけは地に足の着いた現実路線政党であったと考えています。日本新党が大量に議席数を延ばしたときも、単に新党ブームに乗っただけの外れ候補が多かったのに対して、新党さきがけには後々名の売れる質の良い政治家が在ったと言えます。一度は日本新党入りを考えた武村氏が踏みとどまったのも、あまりに現実離れした日本新党の思想に付いていけないと考えたからだと思っています。武村氏の思いの深さは、政党の名前を見ても分かるでしょう。日本新党、新進党、太陽党、平和・改革・・・いかに他の政党は安直に党名を付けていることか。自由党に民主党なんて単なるパクリですよね。

 前述のように、新党さきがけは現実路線主義でした。選挙で空手形を切らないし、政策真っ向勝負でした。一部の市民からは支持を受けるものの、どうしても一般有権者には受けない政党でした。これが党勢を拡大する機会を失わせ、その後の低迷を呼び込んでしまいますが、まあ後の話です。それだけに与党に成ることに拘りました。正確には武村氏が・・・ですが。細川内閣では友誼を強調して与党会派を形成し、武村氏は大蔵大臣のポストを獲得しました。その後に空中分解して羽田内閣の時代が来ますが・・・その境目の平成6年4月のとある日でした。ポン太の新人研修に武村氏が来てスピーチをされました。風貌はムーミンパパそのもので、鈍重なイメージを受けましたが、話しぶりは力強く、発言と発声は明瞭でした。しかしポン太は真剣に聞いていなかったものか(研修の最終日だったんだよ。ちょっとアルコールが頭に残っていたし)、スピーチの内容は覚えていないです。この日、細川内閣が総辞職を決めたそうで、ムーミンパパはあたふたと帰られました。
 そこに依怙贔屓があるわけではありませんが、この人は真剣に物事を考えているなぁ、と感じたのでありました。やがて羽田内閣が倒れ、羽田内閣に冷や飯を食わされた社会党が自民党と提携するという暴挙に出ました。さらに新党さきがけが自社に同調しました。天地がひっくり返るとはこのことです。しかしこの提携を実現したのが武村氏であったことは評価されていません。新進党の面々は武村氏の不誠実を詰りましたが、新進党に政権担当能力がないからこそ、武村氏に見捨てられたことを忘れてはいけません。そして登場した自社さ連立内閣は社会党の村山氏を担ぐという意外なもので、自民党も名よりも実を取りました。武村氏の調停の成果でしょう。その結果、社会党は足抜けを許されず、幾度も現実路線への政策転換を迫られました。このことが社会党の凋落を招いたことは前回に記したとおりです。現在の総保守党体制を生んだ最大の功労者は武村氏なのです。その後、自民党が単独政権を取りうる体制になると橋本内閣が成立し、議席数を減らした社会党と新党さきがけは閣外協力の形を取りました。こんな状況で連立に参加すれば自主性を打ち出せずに飲み込まれるのは必至であったためです。
 では、それまでは自主性が打ち出せていたか、という議論になりますね。武村氏は何を決めるにしても三党首会談を重要視しました。党首会談で有れば、それぞれの所属議員数は関係がありません。対等な立場で対等な提案をしてきました。自民党は数は多いものの単独で物事を決められませんから、提案を呑まざるを得ません。社会党は首相を出すものの勝手な取り決めはできません。そして自民党と社会党は、新党さきがけ抜きで話を付けられるほど大人ではありませんでした。その結果、新党さきがけが一番主導権を握っていました。一番の実を取ったのは武村氏でした。もともと三党の中でも新党さきがけが一番の現実路線でしたし、政策提案能力がありました。そのため早々とさきがけ案を打ち上げてリードを図ってきました。新党さきがけが最も輝いた時代ではなかったかと思います。

 ところが、橋本内閣成立後の新党さきがけは散々でした。社会党は早々と抵抗政党に逆戻りし、弱体化は自分の責任なのに新党さきがけを目の敵にするようになりました。野党第一党の新進党からも裏切り者扱いを受けました。古巣の自民党に帰ろうにも、数々の煮え湯を飲ませた武村氏を受け入れようとしません。さらに言えば新党さきがけのメンバーが自民党への復帰を了としなかったでしょう。結局は鳩山由紀夫氏が飛び出して民主党を旗揚げし、続々と野党勢力が結集する中で、かつてのボスの武村氏以外なら受け入れる用意がある、と言われる始末でした。その鳩山氏や菅氏が活躍する民主党・・・何故か地に足が着かない理想論ばかりを強調しています。一体、武村氏から何を学んだのでしょうか。確かに人数は武村氏よりも上手に集めたかも知れませんが、所詮は寄合所帯でそれを纏める能力もないように見受けます。これでは武村氏も引退できないでしょうね。
#N9月になって、新党さきがけは解党を決定したそうです。現在の勢力は5人ですが、10月末をもって園田、堂本、水野の各氏が離脱し、武村氏と奥村氏がさきがけ党を作って残留するそうです。離脱する3氏は当面無所属だそうですが、遠からず民主党か自民党かを選択することになるのでしょう。武村氏は「さきがけ懇話会」を作って、菅氏や鳩山氏ほか在籍した議員を集めた懇親会を定期的に開きたいと言っています。武村学校創設という感じですが、かつての弟子達がどこまで真剣に師匠の話に耳を傾けることでしょうか。。。引退する新党さきがけは、まだ使命を終えていないだけに残念な気がします。

98.09.26

補足1
 新党さきがけの解党後も構成員2人で残っていた政党さきがけは、園田博之衆議院議員の離脱・自民党入りで、ついに解散届提出となりました。武村代表は無所属の衆議院議員となり、地方組織は残るものの、国会からは完全に名を消しました。
 民主党結党からすでに1年以上・・・さきがけ懇話会の活動も聞こえてこず、さきがけ出身の民主党幹部も凋落気味で、すっかり意義を失ってようでもあります。

99.12.27
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