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政治の研究No.91
偏差値教育のナゾ

 日本の教育現場では偏差値を有り難がっています。偏差値はあくまで学識レベルを図る指標の「一つ」に過ぎず、もともと万能なものではありません。また母集団が大きい場合にはある程度有効な数値でありますが、それを図るテストの設問にも弊害が大きく、被験者の能力を公正かつ適正に測っているのか疑問があります。
 大学入試では、とくに偏差値が重要視されますね。これとても科目別の偏差値を捕らえ、どの科目が得手で苦手なのか図って進路策定の役に立てるのなら良いのですが、学生選別の材料に使っているのですから問題です。まして全科目の合計点数の偏差値など意味のない数字です。ただ偏差値が高いから人間的に優秀で、その人間を選別するために特異なテストを実施するという間違った評価システムが常識化しているように感じます。

 以前から偏差値教育の弊害は言われてきました。しかし社会の中枢を占めつつあるのは、偏差値教育に勝ち残ってきた人たちですから、彼らが自己否定に繋がる偏差値教育の否定はしないでしょう。偏差値教育を万能と信じ、それを崇拝する人間達の主導する教育は、より高度さを求められた偏差値教育だということです。
 具体的に言えば、高校教育も偏差値で縛り、さらに中学教育も偏差値で縛り、結果として小学校でも偏差値主体の教育を施すことになります。そもそも小学校や中学校は義務教育です。中学校卒業時に社会人として恥ずかしくない程度の知識を持たせることが目的です。高校進学を志す者はともかく、難問や奇問が解けることよりも学問の基礎を身につけることが必要なはずです。
 学問の基礎を身につけさせる教育を施し、誰もが基礎を身につけたとすると、彼らの試験成績はいずれも満点であるべきです。基礎であるなら、現在の通常授業時間で充分にフォローできるはずですから、少しばかり理解の遅い子供があってもカバーできないことはないでしょう。誰もが満点であれば、偏差値は全員50です。50だからバカ揃いとは言えませんね。そもそも基礎能力の試験で偏差値30などというのも解せない現象です。

 しかし現実には、義務教育においてさえ業者の実力テストを受験させ、その偏差値で子供の頭の中身を評価しようとします。その実力テストに先生自身が教えていない内容や、十分に説明を尽くさなかったような内容が含まれていても、先生は知らん顔です。教育者としていかがなものでしょう。業者は偏差値に差が付かないと採用されませんから、あれこれ難問・奇問を加える努力をします。難関私学の問題を入れたりするのですね。
 義務教育にまで偏差値教育を導入した結果、教育も自ずと詰め込み方式になり、理解よりも記憶や条件反射を優先する結果を生みました。本来時間さえ掛ければ基礎から理解できる子供達は、勉強自身に嫌気がさし、教育そのものに不信を抱き、最後には社会全体を信用しなくなります。ちょっと変わった子供が、とても変な子供になるのは偏差値教育の責任です。
 また偏差値教育の結果、好成績で生き残った子供達にも不幸はあります。与えられた課題、指示されたハードルをクリアするだけに専念した結果、自分で創意工夫をすることを学ばず、自然体系や社会システムに疑問を抱かず、ほんの少しの躓きで人生を棒に振ってしまう弱い人間に育つ例が増えています。精神的に弱い部分が残り、脆い人間になることもあります。その脆さをさらけ出さぬように虚勢を張って心身に異常を来す人間もあります。

 偏差値をそのまま悪者にするつもりはありません。しかし万能主義は止めるべきです。あくまで一指標に過ぎないことを自覚し、多面的に人間を把握する指標を確立することが必要です。そして、複数の指標のうち得手の特性は伸ばし、苦手の特性はほどほどにフォローするような教育を行うべきです。
 本当は指標に頼らず、教育者が自己の判断能力で評価する手法を確立するべきですが、偏差値教育の洗礼を受けてきた教育者には難しいでしょう。当面は複数の指標を導入し、多面的に評価するべきです(どういう指標が良いでしょうか)。これからは国際社会に生きる時代です。日本だけで通用した偏差値教育も競争に曝されます。このままではフェアな競争は望めますまい。
 とりあえず大学は入学要件を緩和し、卒業要件を厳しくしましょう。そして大学には人物の特性を見抜けて伸ばしうる能力を持つ教師を揃えましょう。これからは大学受験生も減少する一方です。優秀な学生を確保するためにも、偏差値教育を否定してくれるような大学が増えてくれることに期待します。さすれば、自ずと偏差値教育を否定する高校が増え、義務教育で偏差値教育を施す必要性も無くなってくると思うのですが・・・。

99.08.08
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